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博士の愛した数式 小川洋子
ずっと気になっていた小説だった。

まず多くの大型書店で、店員さんの手書きポップがとても心がこもっていたことで気にかかった。しばらくするとこの作品は第1回本屋大賞に選ばれた。本屋に行くたびにハードカバーを手にとって見ていたけれど、なんとなくいつもパスしてしまっていた。

僕はもともとミステリを中心にちょっと偏ったジャンルのものしか読まなかったのだけど、ここ数年、いわゆる普通の小説にも興味が湧き、ちょくちょく読んでいる。春ごろに読んだ第2回本屋大賞の「夜のピクニック」が抜群におもしろくて、またこの作品への関心がぶり返していたところだった。

まず一番魅かれたのはそのタイトルだった。リズムとしてとても収まりのいい言葉だけれど、なんだか意味としてつかめない。数式、という無味乾燥したようなイメージの存在を愛する博士。それが小説の題材になるだなんて、今ひとつピンとこないような。だからとても気になった。

先日いつものごとく本屋をぶらついていると、文庫本になっていた。あまりにも文庫化が早すぎる最近の傾向はどうなのか、なんて思いつつすぐに手に取りレジへ向かってしまった。

物語はある若いシングルマザーの家政婦の視点で語られる。
交通事故によって80分しか物事を記憶していられない初老の数学者の身の回りの世話をすることになり、その数字にしか興味をしめさない偏屈で風変わりな老人に息子のルートとともに魅かれていく、というのが物語の主なところ。

とてもおもしろい設定であるけれど、その描写はいたって淡々と静かなものでその文章の美しさにまずは引き込まれる。じんわりと心に染み入るぬくもりをもった言葉たち。

博士は数学の講釈を媒介にしないとなかなか人とも交わりをもてない厄介な性質を持っているけれど、その講釈の中にはキラキラとした情熱と真摯で純粋な精神が垣間見える。それの一つ一つを、主人公の家政婦は確かに感じとり、数学のおもしろさと博士の人としての素晴らしさを知っていく。

「正解だ。見てご覧、この素晴らしい一続きの数字の連なりを。220の約数の和は284。284の約数の和は220。友愛数だ。滅多に存在しない組合せだよ。フェルマーだってデカルトだって、一組ずつしか見つけられなかった。神の計らいを受けた絆で結ばれあった数字なんだ。美しいと思わないかい? 君の誕生日と、僕の手首に刻まれた数字が、これほど見事なチェーンでつながり合っているなんて」

そこには強烈なロマンチシズムと、プリミティブな学ぶことへの感動がある。いくつものエピソードが折り重なって、博士のその特異な愛し方がなぜだかとても暖かいものに感じられていく。
特に主人公の息子、頭が平らなことから「君はルートだよ。どんな数字でも嫌がらず自分の中にかくまってやる、実に寛大な記号、ルートだ」と名付けられたルートと博士の交流はまぶしいくらいに優しく輝いている。

お互いがお互いを理解しあうことが不可能な関係性が、話をとても切なくしている。80分しか記憶が持たない博士は翌日になると前日の記憶はない。家政婦の母子はたくさんの思い出を博士と作りながらも、毎日博士が初めて自分たちに会うことに注意して接しなければいけない。毎日記憶を失うことで、何が辛いのか、博士を思いやっているつもりでも、深く傷つけてしまったりもする。博士も気遣わせまいとする姿勢をみせる。そんな中で確かに育まれていくものをなんと表現したらいいのか分からないけれど、そこには確かに大切なものが存在していて、彼ら3人をしっかりと守るように包んでいるようだった。

全てが微妙で曖昧で、でも確かな関係性をもって、徐々に変化していく、その経過が丹念に丹念に描かれる。
ミステリのように展開や描写に刺激の多い小説を読んでる身としては、普通なら退屈に感じられるタイプの文章だけれど、不思議にぐいぐいと引き込まれ、最近では珍しいくらいハイペースで読みきってしまった。最後までそれほど大きな話の起伏はないのだけど、一つ一つのかすかな登場人物たちの心の揺れに、こちらまで敏感に共振させられ、夢中になって没頭してしまった。

個人的に根っからの理系人間ということもハマッてしまった一因ではあると思うけれど。

とはいえこれが骨の髄まで文系な書店店員さんが選ぶ賞に選ばれたのだから、この作品は誰にでもおすすめできる無敵の小説な気がする。

文字を読むだけで眠くなる人以外全ての人におすすめしたい暖かい傑作。
by kngordinaries | 2005-12-10 03:36 | 小説


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